留置場

SS置き場

靴ひも

 暑さと寒さは、もう久しく感じていなかった。ここの気温は少しも変わらないのだ。
 辺りは霧に包まれている。見えるものと言ったら、自分の身体と地面の土だけだ。
 コンパスを取り出そうとポケットに手を入れたところで、いつの間にか落としてしまったことを思い出し、ため息をつく。ついに方角さえも分からなくなってしまった。コンパスを失くした代わりに手に入ったのは、ずっと同じ場所を歩き続けていたとしたら、という不安だった。
 歩き疲れた。なるべくゆっくりとしゃがみ込んで、靴紐を結びなおす。別に紐がほどけていたわけじゃなかったが、わざと自分でほどき、また結びなおした。
 立ち止まると、不安に襲われてしまう。どこかへたどり着かねばならない。そのために歩き続けなければならない。立ち止まっていては死んでしまう、という不安に。この不安は理性で抑えられないほど大きなものだった。だから、何でもいいから何かをしていないと、休めなかった。
 少し前は、ダンスをしていた。昔、友達が考えたダンスだ。それを仲の良い数人と踊っていた。ダンスの前は歌を歌っていた。有名な歌手が歌っていた歌だ。ダンスも歌も、急に虚しくなってやめてしまった。靴紐を結びなおすのは、なぜだか妙にしっくりきて、長いことこれで凌いでいる。
 また歩き疲れてきたので、俺は立ち止まって靴紐を結ぼうとした。紐をほどこうとしたが、その必要がないことに気づいた。いつの間にか勝手にほどけていた。ほどけた靴紐は1、2センチほど地面に垂れている。それでも、自分で紐を踏んで躓いたことはなかった。
 なんだかすべてがどうでもよくなった。靴紐がほどけたままで、歩き始めた。今まで抱いていた不安も、全部なくなってしまった。だから立ち止まっても何とも思わなくなった。というか立ち止まることすらなくなった。
 どこかへたどり着きたいという願望も消えた。ただ霧の中へ、中へと歩いていくのみだった。